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烏江湊

文化遺産
烏江湊(からすえみなと)は船附湊(ふなつけみなと)、栗笠湊(くりがさみなと)と共に濃州三湊といわれていますが、慶長15年(1610)の文書には濃州五湊として三湊の他に高田湊と横曽根湊(大垣市)が挙げられています。慶長14年(1611)には徳永法印(とくながほういん)が烏江湊の舟問屋であった庄屋、吹原勘兵衛(ふきはらかんべえ)に九里半街道の近江米原から烏江、烏江から尾張熱田への舟運を許可しました。それ以後江戸時代末まで濃州三湊の一つとして吹原勘兵衛等の管理のもとに湊は繁盛しました。その後、牧田川の川底が土砂のため高くなり大きな舟が入らなくなったので水門川(すいもんがわ)が開発され、荷物の多くが大垣湊へ入るようになりました。そのため烏江湊は一時期衰退しましたが、明治期には赤坂山(大垣市)の石灰岩を運搬するため、名古屋方面への舟運が再び隆盛し、赤坂-烏江-今尾-桑名-名古屋への舟運が利用されました。大正年代(1924)頃まで烏江湊は存続しましたがそれ以降は木曽三川の改修によりすべての湊は消滅してしまいました。
住所
岐阜県養老郡養老町烏江
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